【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
~岩槻城の落城伝説と久伊豆神社~
天正18年(1590年)5月のこと、豊臣秀吉の大軍は小田原を包囲し、別軍は武蔵に攻め込み、忍・鉢形・岩槻の各城に押し寄せてきました。
この時、岩槻城は城主太田氏房が小田原に出陣しており、家老の伊達房実が城を守っていました。しかし、城づくりの名人といわれた太田道灌が築いたという名城だけあって、昼夜の別なく攻撃してもいっこうに落城しませんでした。そこで秀吉の命をうけた徳川家康は、家臣の浅田長政、本多忠勝に命じて岩槻攻撃の機会を窺うために、辻村の鎮守八幡神社に結集し、陣営では鎧をつけて攻撃の準備を進めていました。これがもととなって、地元では八幡神社を「鎧の宮」と呼んでいます。
当時、久伊豆神社の裏手にはとうとうたる大河の荒川(現在の元荒川)が流れていたので、包囲軍はどうすることもできませんでした。折しも五月雨の頃で川は水かさを増し、濁流が渦巻き、人馬を一呑みにするほどの勢いだったということです。
その時です。無念そうに川面をにらんでいる兵の前に、どこからともなく現れた白髪の老翁が白馬にまたがって、濁流の中に馬を乗り入れ、激流をあれよあれよという間に渡り対岸の岩槻城の総鎮守久伊豆神社の森の中へと消え去ったのです。これを見た諸将は、老翁のあとを追い、川を渡って進撃を始めました。こうして、さすがの難攻不落の名城といわれた岩槻城もその日のうちに落城してしまいました。
老翁が渡った場所は、岩槻勢が万一に備えた逃げ道で、川底には一帯に石が敷き詰めてあったそうです。
そもそもこの老翁はいったい誰だったのでしょうか。実はこの老翁こそ、辻の八幡大菩薩で、かねて包囲を続けている敵軍の来襲が近いことを岩槻城に知らせるためにかけつけたのですが、逆に敵に進路を教えることになってしまったのです。
それ以来、岩槻の人々は辻の八幡様を恨み、その氏子とは、縁組をしないという風習が長く続いたそうです。(これは江戸時代の話で、現在その風習は残っていません。)
南辻に鎮座する現在の鎧宮八幡神社